2018/4/16 #2 自由帳に何を書いていたか。
電車の中でまた思考整理を始める。
どうもtreです。
手帳に付箋を貼るという友人Kの手帳の真似を始めて4ヶ月目に突入した。
未だに時間軸の予定表を使う気にはならないが、上手く行っているような気がする。職場の人には「デカいなそれ」と小馬鹿にされたが割と愛着はある。
手帳を使うのも訓練だなぁと書きながら考えた。大学一年生の頃まで手帳なんて使わなかったし、全部頭の中に入ってるつもりだったけど、実際には時間や日にち、遊び、勉強、用事…ハチャメチャになりながらも散らかった部屋の中から教科書を見つけるような感覚で、日々を過ごしていたような気がする。
最初に手帳を使おうと試みたのは、高校生の頃だったような気がする。生徒手帳にカレンダーが付いてて、3日ほど時間割とか書いていたような記憶があるが、別に覚えてるし、意味ないなと思い、頻繁に忘れ物をしながらも何とか高校生は過ごせていた気がする。
大学2年生になり、誰かの影響で手帳を使い始めた気がする。予定のびっちりと詰まった手帳をみて、これは真似してみようとなったが、バイトとテストの予定を書いたり書かなかったり、結局覚えているつもり病の再発により、適当にしか使わなくなっておざなりになっていた気がする。
その他にも、「7つの習慣」に影響されて時間割のような1週間の予定表みたいなものを作ったが、効果的だったのはわずかで、2週間足らずで空白の予定表となったし、A4ノートを手帳のように使っていた時期もあるが、4ヶ月ほど使ってノートが破れたのと、人から小馬鹿にされたのと、結局予定が遂行出来なくなってきてまた辞めた。
20歳にして「スケジュール管理は酷く苦手なものだ」という良く言えば自由人、悪く言えば責任感のないゴミ野郎みたいな人格が出来がってきたのは、この手帳にトライして失敗し続けたことも要因の一つなのかもなぁと思うし、生まれつきの人格だろと半ば諦めのようなものもあったと思う。
「このままではいけない」なんて自伝的な要因もないし、小説のような、少年ジャンプのような転機みたいなものは全くなかったが、気がつけば予定の埋まった手帳をカバンの中に入れて、その予定を遂行しようという気になっている。
グダクダとなんか要因みたいなものがあるかなぁと今も電車の中で考えていたが、予定が勝手に埋まっていたあの頃と比べると、今は予定を自分で入れているというところだろうか。
もちろん主体的でない予定もあるが、主体的な予定を土日に埋める楽しさから「ついでにこいつも入れておいてやるか」ぐらいの感覚なんだと思う。
予定の質は確かに変わった。自分から動く予定が大半を占めている。職場もスリリングで楽しいし、何より休日がバイトにしろライブにしろ音楽がある。
新書を読み始めたとか、音楽の見方が変わったとか、夢のある人に出会って人生観を語り合ったとか、色んな要因は枝葉の話だと思うし、なんだかんだ予定表のない日々の中で捕まえておくべき人たちは捕まえていたんだなぁという印象。
「離すなよ。これ(お金)離さぬのが始末の極意じゃ。」
故桂米朝の有名な落語の「始末の極意」の最後のセリフ。適当に生きてきたようで、手を離していたようで、手首を掴んでくれている人たちが居たからこそ、今やっと開いていた手をもう一度掴む、そして手を差し伸べてみようとする事が出来るようになってきたのかなとか思う。
今の手帳を買ってしばらくしてから真っ白の自由帳を買った。80ページほど書ける自由帳の20ページほどには、綺麗でない字や図で、手紙のプロットやらこれからの事や良いと思った言葉や考えが書かれてある。
相変わらず自分の部屋のような使い方をしている自由帳だが、これも手帳と同じくらいに気に入っている。
小学生の頃、自由帳に迷路とか書いてクラスの人には見せて10人くらいで遊んでいた記憶が蘇る。
この自由帳にまた人が集まってくるような日を楽しみにしていたい。
おわり
tre
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2018/04/15 #1 独りよがりを治す気はない
主ブログを始めて1年弱経ちました。
「treのアコースティックな日々」の管理人をしておりますtreと申します。
「日々」と言いながら、真面目に書いてきた文章ですが、自分の文を出来るだけ消す作業なんですよね。表現力を出すことが難しくなってきたので、こちらのブログで適当にアウトプットするような日記のようなものをやろうと思い立ち、この記事を書くことになりました。
そう本来の文章はこんな感じでとっ散らかってるんですよね…。
思考整理には表に出していく、それが綺麗になったのがブログ、もっと簡潔にしたものが楽曲、そんなイメージ、バランスで今は生きてます。
思考もないようなグダクダしたものが書きたいんだな?そういう理解で問題ありません。
長々と前置きしました。そろそろタイトル伏線回収作業に移っていくわけですが、数少ない古い私のファンの方ならどの楽曲から引っ張ってきたのかはよくご存知でしょう。そう「水の国へようこそ」。
何年か前のいつの日かは忘れましたが、0時53分に結成した3ピースバンドfemtre(フェムトレ)。半年近くベースが不在のまま、弾き語りをしていた中で生まれた楽曲が「水の国へようこそ」。バンド風にアレンジの後に、ベーシスト加入、完成度が年を追うごとに変化していった楽曲の変わらない歌詞の一行目。
「独りよがりは治らない」
この一文をない頭から引っ張りだしたあの時のtre青年、きっと今はさぞかし有名なアーティストになっているのだろうなぁと思いきや現状。深くは言うまい。
抽象的な歌詞を書くのが好きだった時分に唯一感謝すべきは、年を追うごとに歌詞の捉えようが変わってくることですね。
恋愛の失敗をテーマにしていたような気もしますが、作った時の想いなんてどっかへ飛んでいってしまいました。
上を見れば宇宙があって限りなく広い広い世界、マクロの世界がある。反対に水の国ではミクロの世界。心も広く広くするのではなく、奥の方へ奥の方へ堕ちていく。湖そのものを心と形容して底の方へ底の方へと潜っていく。そこには何もないのに湖から上がろうとせずに、潜っていく。
まるで解決策の見えない夜。乾いた砂漠の方が息ができる。それすらしようとしない。湖から出ようとしない。
こういった心の潜水と呼吸のジレンマ的なものを描いているのがこの「水の国へようこそ」。
完結もしていない歌詞が逆に良い。この歌詞に救いはなく、ない底に向けて堕ちるだけ堕ちていく。このセンスは今の私にはないです。
さて、「独りよがりを治す気はない」と言うタイトル。
「水の国へようこそ」では「独りよがり」と言うものが治さなくてはならない病気のようなニュアンスで描かれています。
数年前のtre青年には、まだ独りよがりに関して恥が見えていますね。
現状。こんなタラタラとブログに日々の記録を載せようとしているくらいですから、もう恥もクソもありません。
「独りよがり」から「独立」というニュアンスになってきたのか、そんなことはどうでもよくなってきたのか。
「独りよがり」と言うワード自体に興味がなくなってきてるんでしょうね。
「7つの習慣」というご立派な本には、アメリカの個人主義の進化系、人格主義というものを提唱しています。
その中での「win-win,or no deal」という考え方、良いこと言うじゃんって思いましたね。両者の為にならないなら関わらない。
それが出来れば苦労しねぇよ、でも良いこと言うじゃんって感じですね。
今更蒸し返すのもあれですが、過去のtre青年に向けて一言だけメッセージを送るとするならば、
「loseを抱え込むことは独りよがりだが、一人でいる事は別に悪いことじゃねーぞ」と。
彼女が出来るような人間じゃないんだから夜に一人なのは、当然。朝起きて人に会う生活をしていれば自然と夜は眠くなる。
それが「独りよがり」と言うのは違うが、他人を尊重することは大切。
未だにプライドは天より高いのが反省すべき点だけど、他人を尊重しなければいかん。
人との交流の仕方、天性で人の寄ってくる人もいるが、大抵そうではない。ただ人の事を虫けらのように見ている人にはあまり人は寄ってきてないように感じる。
他人を尊重する為には自分という確固たる存在が必要。
だからわたしは今こういう。
「独りよがりを治す気はない」
また近々歌詞を読み返して、解釈を変えてみようと思います。
終わる時はぬるっと終わる。
tre
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