独りよがりを治す気はない

日常的な思考整理手帳

2018/4/20 #6 麻雀について語ろうと思う。

 

 

立派なこと書き過ぎてて段々とブログが書きにくくなってきているので、全く為にならない話を一つ。

 

 

麻雀について思うところを述べる。

 

 

ヤクザの代打ちで名を馳せた雀鬼桜井章一は、麻雀の牌をめくっていく山の事を「牌の通る道」と呼ぶ。

 

 

「麻雀、イカサマ」と検索をかけると彼の名前が割と上位に出てくる。洗牌している間に欲しいものを山の中に仕込んだり、或いはわざと相手にアガらせるような仕込みをしたりとやりたい放題である。

 

 

「なんだイカサマ師か」と思いきやイカサマなしで打ってもひょいひょいとアガって魅せる。全くもって理解出来ないレベルの引きや牌の選択をする上に、イカサマという選択肢も持っている。トランプで言えばジョーカー、ビンゴで言えば真ん中の「free」みたいな人である。

 

 

麻雀は基本的には4人で反時計回りに牌をめくっていく。つまりある程度次に引く牌はアレだなと予想がつく。「通る道」、つまり自分が引くべき牌は積んだ時点で決まっていると彼はいう。鳴きという捨てたものを拾う行為をされると、それは成立しなくなるが、この特性を利用して勝っている人間の調子を下げたり、自分に運を引き寄せたりする事が可能であると彼は言っている。

 

 

麻雀で勝つには手役を揃えなければならない。大幅に負けている人は大きな点の入る役を狙いにいかなければならない。勝っている人間はさっさとこのゲームを終わらせる為に早い手役を作っていく。

 

 

デジタル打ちというのが現在の主流で、確率的に狙える役を狙い、他人がリーチしたり、手が大きいなと思ったりしたら、さっさと降りる。大きくは勝たないが大きくも負けない。アベレージで見れば、確実に点数は違ってくる。

 

 

雀鬼は確率では捉えきれない。雀鬼の作った雀鬼流という麻雀の道場がある。そこでは、麻雀において厳格なルールがある。

 

・第1打の字牌切りは禁止

聴牌までドラは切らない

 

有名な縛りはこの二つである。

 

 

第1打目に字牌を切らない理由が自分は非常に好きだ。「他人に失礼だからだ」というものである。字牌は人によっては必要なものであるので、第1打目に打つというのは紳士ではないというのである。

 

 

例え勝負でも他人を尊重するというところは見習いたいものである。

 

 

自分の大学教授が麻雀については「人格の周辺領域である」と述べている。つまり人が出るというのである。臆病さ、大胆さ、慎重さ、賢さ、そして何より運の強さ。言われてみるとそうかもしれないなと思う。手役にも好みはあるし、その人のその日の運も絡んでくる「ゲーム」であるし、人間を映す鏡みたいなものだなぁとも思う。

 

 

先ほどの雀鬼流の第1打目の字牌切りの禁止も、デジタル打ちではセオリーではないが、人間を尊重するという行為を忘れてはいけないと言うメッセージなのかもしれない。

 

 

麻雀に関する哲学めいたものはたくさんあるので、また紹介出来れば紹介したい。

 

 

ではでは

 

 

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